昭和41年11月19日 朝の御理解                  明渡 孝




 昨夜のお月次祭の後のお話を終わらせて頂きましたら、もう体にビッショリの汗でございました。もう風邪の具合が悪いもんですから、まあ下に着れるだけたくさん着込んで、そして、しばらくお話を( ? )前で、皆さんに聞き取って頂けれるように、一生懸命、いうなら(はじなせて頂こう?)ということでございますから、額がジュックになるくらいに汗が出ておりました。
 それでもお風呂へ入る、その時にはもうお風呂、ご無礼して入りませんでした。入らずに簡単に食事を。そのまま皆さんが残っておりましたけれども、ご無礼して休まして頂きました。
 ●どうも気持ちの悪い前に休んだんですが、そういうな状態だったからでしょうか、今朝、(禊(みそぎ)ぜき、禊ぜき?)というお声を頂き目が覚めた。何か知らんけれども、心の底から清々しいまでに何か湧いてくるような元気を感じるんですね。私は(禊ぜき?)という相撲をまだ見たことがない。
 けれども、二・三日前でしたか、(かしおど?)が負けましてね、それでそれが新聞に出ておりました。ふさぐように(かしおど?)が引上げて帰ってくる時に、これはもうたいへんなその、相撲を見たもんだというてその、引上げてから帰っていったようなことが書いてございましたんですが。よっぽど強い、いわゆる(しんげんな?)相撲らしいですね。
 ですから、私(禊ぜき、禊ぜき)ということを頂いてから、禊ぐということによって力が頂けれると。新しい、いうなら勢いを頂かせて頂くことができると。そういうふうに感じとしてはそう感じたんでしょうね、何とはなしに清々しい、昨夜休ませて頂く時とは、打って変わった清々しさで、今日はいつもよりも十五分ばっかり早く起こさして頂いて、それから、みそぎもんで裸になってから、みそがして頂くじゃないですけれども、冷水に(?)さして頂いて、そして、今朝おかげを頂いたわけでございます。
 皆さんが、御祈念の時に天津祝詞を奏上されます。大祓をするけれども、天津祝詞のことを禊祓とも申します。私どもが天津祝詞を奏上さして頂きよりますと、何とはなしに六根清浄とね、心が清まっていく気がいたします。
 または、この禊をする。なるほど水行なんかをいたしますと、もう素振りの上でも( ?  )ちゅうことないですね、確かに、体全体が清められていくことだけではなしに、心までも清々しく清められた気がいたします。その気が大事なんですね。ほんとにそういうところを信心さして頂く者は、心がけとして頂かなければならんのですけれど。
 昨日も、朝の時でした。ここに飼ってありました猫が、そこの店の前で自動車にはねられて死んだ。私どもその猫、たいへんかわいがっておりましたもんですから、それをいろいろ処置して、あとを水で洗って、そしてその火をまいて清めてきたという空気をいたしておりました。
 これなんかも、今言った祓い。気持ちがいっぺんに水で綺麗に、その時の血なら血を洗い落とすわけです。その上に塩までまいてくる。ですからその、私どもの心の上にもです、そうした、いうならば、嫌なもの、不浄なもの、汚れたものがございますから、ほんとにお水を頂いたり、それこそ塩まくような気持ちで、自分の心の中を清めるということ。
 そして、その清々しい心で神様へ打ち向かうということは、ほんとに結構なことだと思うんですね。やっぱりこれは必要です。
 同時に、私今朝から頂きましたその、(禊取り?)ということによって、そういう禊ということによって力を頂くということだと、私は思ったんですけれども、ただ清々しいという気分だけでは、だからいけんのですね。
 お水をかかったと、(    ?    )と。いわゆる( ? )が出とるから、普通からいうなら風邪ひいとりますから、もう裸になることも、冷たい水で体を拭いたりすることも厭うのですけれども、心に元気が湧いとるますもんですから、それができて、ほんとになるほど清々しい気持ちでご神前に出ることができた。
 そこで私がお道でいう、その禊ということは、私はね「日々の改まり」以外にないと、そんな気がいたします。私は心を清められると。ですから、ほんとの禊といことは、私は「改まり」ということだとこう思う。やはり自分が脱皮していくということに、本気で努めることだと思う。
 ですから、例えば自分の心の中に不浄を感じる、汚れを感じましてもです、「今日も本気でどうぞ改まりに取り組まして下さい」とこう願わして頂く心。または、ほんとにその改まりということに精進するということがです、私はお道の信心で言う「禊」だと。その改まるということによって私は、力をいよいよ頂いていくんだということを、今朝から感じたんですけれどもね。
 けれどもやはり、言葉の上にも、または形の上にも、言葉に六根清浄、いわゆる禊祓を唱えさして頂きながら、やはり清々しゅう気になる。汚れておるならば洗い落とし、流し落とす。いわゆる水のひとつにもかからしてもろうてから体を清める、これも大事。けれども、もっともっと大事なのは、自分の心の上の清まり。それは脱皮以外にない、改まる以外にはないんです。
 だから、「今日もどうぞ改まらして下さい」と。「信心は日々の改まりが第一じゃ」とおっしゃるのは、日々禊。祓い清めるということを私は教えておって下さったんだと思うんですね。どうぞひとつ、本気で禊どりじゃないですけれども、ほんとに勢いと同時に、大関であろうが横綱であろうが投げ飛ばせれるような、どういう例えば(?)であろうが、どういう不浄であろうが汚れであろうが、その元気な心で祓い飛ばせれるだけの私は元気を頂かしてもらう。
 それにはいつも、やはり寒中に水垢離というような、肉体をそれによって清めるというような元気な心と同時に、そういう心で本気で日々の改まりに取り組むことだと、いや、それ以外にないというふうに思うのです。
 どうぞ、禊をしましたあとの清々しさ、その清々しさが、私は神様に通うと思う。同時にこれを改まらして頂くことの難しさはあるけれども、またその改まらして頂くことの後の喜びというものは、心を祓い、そして清め禊さして頂いたそれに匹敵するというよりも、お道の信心とはそれだと、そのことだと。こう教祖様は「信心は日々の改まりが第一じゃ」とおっしゃって下さったというふうに思うですね。どうぞ。